情熱を以て殴れ

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出産と育休を振り返って


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昨年の2月に出産し、あっという間に1年以上が過ぎてしまった。

激戦区のため非常に苦戦した保活についてもなんとか希望園に決まり、この春からおよそ1年半ぶりに職場に復帰する。長かった育休が終わる。

この2年弱のことを忘れてしまわないうちに文章に残しておきたい。てんこ盛り過ぎて、あんまりまとまりはないけれど。

 

子供を望んでからなかなかスムーズに授かることができず、毎月落ち込んでいたところにようやくやってきてくれた赤ちゃんだった。

妊娠してからも出血など不安な出来事が続いて、もしかしたら喜ぶ時間より不安がる時間のほうが長かったかもしれない。妊娠の週数が1つ増えるたびに、今週も生きていてくれたことにホッとしていた。もっと幸せな気持ちでいられる性格だったら良かったのに。

 

エコーで人型を確認できるようになったころから、「大きな子ですね」と言われていた。後ほどそれは夫の家系の遺伝子によるものだと明らかになったけど、特に頭が大きかった。

対して私は体が小さい方で、骨盤も大きくなかったので早い段階でどんどんお腹が出た。

体重管理は順調だったけども、念のため妊娠糖尿病の検査も受けた。検査結果は問題なく、本当にただ大きいだけの胎児だった。

 

食べづわりはあったものの、重くはなく、安定期に入ったころには収まった。ただ、お腹が大きいせいかむくみによる手指のしびれと頻脈があって、とにかく横になっていることが多かった。

通勤は徒歩と電車で1時間ほど。電車ではたくさんの方が席を譲ってくれた。荷物を運ぶのを手伝ってくれる方もいた。職場でも皆に気遣っていただき、温かさが胸に沁みた。

 

大きい赤ちゃんは妊娠後期に入ってもしっかり大きいままで、先生からちょくちょく「帝王切開になる可能性があるね…」と匂わされるようになった。

私は痛みに弱いので無痛分娩を選択しており、また計画分娩であったため事前に出産日が決まっていた。しかし、予定より早く胎児が産むべきサイズに至ってしまい、突如出産日が2週間早まってしまった。

無事に産めるのか、自分も生きていられるのか、無痛とはいえどれくらい痛いのか…悪い想像しか浮かばずものすごくブルーだったことを覚えている。急遽仕事の調整を(無理やり)つけてくれた夫には感謝している。

 

いざ出産ということで、血栓防止の着圧ソックスを履いて早朝から挑んだ。のだが…点滴のルート確保やバルーン(子宮口を人工的に広げるための風船みたいなやつ)の挿入で痛みを受けたときに、私が迷走神経反射を起こして血圧低下→胎児の心拍も危険なレベルまで低下してしまい、やむなく緊急帝王切開に切り替えとなった。これは当然私が痛みに弱すぎた、点滴も人生初めてで緊張しすぎたという点が大きかったのだけど、お腹が大きすぎて仰向けになると子宮で大動脈が圧迫されていた影響もあったらしい。恐ろしいことである。

情けない理由で帝王切開になってしまって凹んでいたが、麻酔の先生が優しく、私に対して幼児に語り掛けるように対応してくださった。これが本当に心強くて、意識を取り戻してすぐ夫に「麻酔科の先生が神すぎた、一生感謝する」と報告した。

 

麻酔がしっかり効いたらすぐ手術室に運ばれてお腹を切られた。ほかの方のレポでもよく言われるとおり、ちょっとびっくりするくらいグイグイお腹をこねくり回され、手術開始から20分程度で息子が産まれた。泣き声が聞こえたとき感動するかと思ったけど、それより生きて産まれたことに安堵する気持ちが大きかった。ちなみにコロナの影響で立ち会い不可のため外で待機していた夫は、先に抱いた際「これ抱っこして大丈夫!?死なない!?」と恐怖していたらしい。

そこから私は縫合のため麻酔で眠ったが、結構意識が浅いところにあって何度かカチャカチャ手術の音や先生たちの会話が聞こえた。足が動きそうだな?と思って動かそうとしたりしていたので、何度か麻酔を追加されていたらしい。意識を取り戻さなくて本当に良かった。

 

術後麻酔が解けてきたとき、意識が波のように夢と現を行ったり来たりしていて、妄言というかなんというかベラベラしゃべっていた。出産ハイだったのかもしれない。意識を取り戻して最初にしっかり発した言葉は「刺身を食べたい」だった。看護師さんは「そうだね、いっぱい食べようね」ととても優しく返答してくれたけど、普通にもっと…なんというか…真っ当な発言をしたかったと後悔している。

初めてきちんと息子と対面したとき、しわくちゃで可愛いのかどうかはよくわからなかったけど、とても小さく生きているのが不思議なサイズ感だった。私が呼ぶと、びっくりしたように私のほうを見た。胎内で聞こえた声が聞こえるので反応することがあるそう。本当にこの子が私のお腹にいたのか、と実感した。

 

たまに過酷な帝王切開レポを見かけるが、私がいた産院は優しかったようで、しばらく硬膜外麻酔をつけたままかつ母子別室だった。というか、同室のお母さんたち過酷すぎると思う。麻酔もなくあんな状態で初夜泣き対応させられたら、間違いなく私が泣く。

希望すれば母子同室もできたけど、基本的には「お母さんはまずしっかり休んでね」というスタンスの産院だった。個室が広く食事も美味しい病院で、自分でもびっくりするくらいスムーズに回復することができた。

これまたコロナの影響で、見舞いは1日15分1名だけというルールがあった。15分の間に必要物資を搬入し、息子を愛でなければならない夫はさぞ大変だったことだろうと思う。

 

夫はと言うと。事前の協議により、夫は私の実家に共に里帰りしてくれていた。運のいいことに理解の得られる職場だったため半年の育休を獲得してくれ、そのうち3か月は私と息子と共に私の実家で過ごしてくれた。

正直、義実家での長期滞在は気が休まらないことが多々あったろうし、それは私の両親についてもそうだと思う。双方が育児のために尽くしてくれたことには感謝の念に堪えない。

 

育児をしていると、自然と自分と親との関係について考えることが増えた。自分が息子に何かするときに、自分が親から受けたことを思い出した。良いことも悪いことも。私は親が大好きでも大嫌いでもないタイプだけど、こうやって育ててもらった恩は次世代に繋いでいきたいと思った。

産む前に親に孫を見せなきゃ…という気持ちは特になかったものの、それでも孫が産まれるからとはりきって畳や障子を張り替えたり、息子の一挙一動を喜んでくれたりするのは嬉しかった。

 

幸運にも恵まれた環境の中で、息子はすくすく育ってくれた。

たまたま母乳がじゃんじゃん湧くタイプだったので、じゃんじゃん飲ませていたら日に日に丸くむちむちになって、毎日成長する姿が愛おしくてしょうがなかった。

産まれた直後から授乳練習を始めるまで3時間ごとに助産師さんにミルクを飲ませてもらっていた息子は、「食事とはそういうものなのだ」と納得したのか3時間ごとにしか食事を要求しない利口な赤子だった。

1歳を迎えた今もよく食べよく眠るマイペースな大人しい子で、唯一便秘体質だけが悩みなくらい。こんな可愛い良い子が私の子なんですか?と信じられない気持ちがあるけど、それを一瞬で打破するくらい夫に顔が似ているのでやはり私の子なんだろう。

 

振り返ると、人生で一番強く感謝した期間だった。今までももちろん他人に感謝してきたけれども、幸運にも大怪我や病気をほとんど経験してこなかったことから命が関わるような大きな事柄について感謝することはなかったように思う。

先生、看護師さんや助産師さん、親や家族や友人、その他私に関係するすべての人々が、こんなに私と夫と息子のために動いてくれるものなのかと戸惑うほどだった。ちょっと恥ずかしい言い方をすると、ここまで愛されているということに驚いてしまった。

授乳がなかなかうまくいかなくて、上半身の力が入りすぎてガチガチになった私の肩を励ますようにさすってくれた助産師さんの手の温かさが忘れられない。

言葉では感謝の気持ちを言い尽くせないけど、本当にありがたかった。そして、これから先このお礼を返していきたいし、私もまた誰かに愛を伝えられる人間になりたい。

 

一旦仕事という社会から隔離され、夫婦で育児だけに専念した日々は私の宝物になった。

夫は私より遥かに息子を溺愛し、この人との間に子供を持つことができてよかったと思う。

 

息子は毎日何かができるようになって、何かが終わっている。寂しいけど「成長」というのは人間にとって大きな喜びなのだなと実感したし、明日に希望を感じるようになった。

明日から息子は社会への第一歩を踏み出し、これまでよりずっと早いスピードで私たちの手から離れていく。何もかもが惜しくて寂しがる親だけど、その成長が楽しみで仕方ない。とりあえず、明日の入園式で泣くのは許してほしい。

入園、本当におめでとう。たくさん楽しいことをして過ごしてね。